文部科学省 私立大学戦略的研究基盤形成支援事業

次世代型環境防災都市の構築に向けた基盤研究

~神奈川県厚木市をモデルケースとして~ 

Project 2 環境防災都市モデルの提案に向けた神奈川県厚木市の建築的・都市的データの収集

厚木災害史年表から厚木近現代建築史へ

 

 

 

 

 

 

教授 海老澤模奈人

1.はじめに

 厚木市は人口約22万人の神奈川県央地域の中核都市である。複数の大企業が生産・研究拠点をもつ産業の街であると同時に5つの大学・短大がキャンパスを置く教育拠点都市でもある。本厚木駅前には高層マンションが林立し、郊外に数多くの住宅団地が立地する点では首都圏有数の居住都市でもある。また、山・川の自然環境や温泉地が訪問者を集める観光都市の側面ももつ。とはいえ、全国に知れわたるような決定的な特徴があるわけではなく、多くの人が知る重要文化財級の歴史遺産があるわけでもない。つまり際立った特徴こそないが、文化・産業・居住・観光の各面で今後の発展が見込まれる首都圏の郊外都市のひとつと考えられる。筆者自身も十年以上この街に住み、働いてきた経験から、厚木市はこれといった決め手はないものの、バランスのとれた住みやすい街であると感じている。そのような言わば普通の都市だからこそ、日本の標準的な都市の歴史と将来を考えるケーススタディの場となりうるのではないか。

 本研究は厚木市をモデルケースとして、防災を切り口に、近現代建築史の一面を考えようとする試みである。それはモニュメントの価値を見出すような一般的な建築史研究とは一線を画すものであり、むしろありふれた普通の建築物の意味を考える試みである。そこから日本の多くの都市の近現代建築に通じるテーマが現れるのではないかと考えた。

 最初に各種既刊資料をもとに厚木市の災害史年表を作成した。厚木市が現代に至るまでどのような災害に遭い、それらにいかに対応してきたかを知るためである。続いて災害史年表のなかでも比較的新しい20世紀後半の出来事に注目し、建築と関連するテーマを抽出する。本稿の後半はその二つのトピックスを記したものである。

 

2.厚木災害史年表の作成

 厚木災害史年表(暫定版)の作成にあたり、厚木の歴史に関する公刊資料を収集し、そこから厚木の災害史に関する情報を抽出して表にまとめた。今回の年表作成では、災害データの収集にあたり基本的に二次資料を用いた。近世以前の一次資料を扱うことは筆者の力量を超える仕事であるが、戦後の厚木市広報などの一次資料からさらに詳細な災害・防災情報を得ることは可能である。ゆえにこの災害史年表はあくまで「暫定版」であり、今後の充実を目指したい。

 公刊された厚木の災害に関する文献としては、厚木市史編纂委員会編『厚木市史史料集(9)災害編』(1975)が基本文献となる。同委員会編『厚木市史史料 厚木市年表』(1982)も同様に参考になった。また、『厚木郷土史』など郷土史家・鈴村茂氏の著書も参照した。地震等の災害情報については、国立天文台編『理科年表2016』(丸善出版、2015)も参照した。近代に関する資料としては、厚木市史編纂委員会編の『厚木近代史話』(1970)などがある。また、『目で見る厚木・愛甲の100年』(1991)、『厚木市の昭和史』(1993)などの写真集に掲載されている巻末の年表も参照した。以上を総合的に用いて年表(暫定版)を作成した。

 年表は近世以前(江戸時代以前)(表1)と近現代(明治時代以降)(表2)に分けた。これは情報の精度の違いによる。前者は主に『厚木市史史料集(9)災害編』、『厚木市史史料 厚木市年表』、『理科年表2016』から災害情報を集めたが、厚木に関する情報はわずかで、大半は関東全般や、鎌倉や江戸など近くの主要都市についての情報であった。近世以前についてはそもそも厚木市、とりわけそこでの災害について記された史料自体があまり存在していないようである。筆者にとって近世以前は専門外であるため、それ以上の調査は進められなかった。なお、年表では災害種別(地震、水害(洪水・台風・大雨)、大火)ごとに色分けしているが、近世以前は参照した資料の性格もあり、地震と水害が多くを占めている。ただ、それらの災害においても現在の厚木市域において実際にどの程度の被害を受けたのかはほとんどわからない。

 その一方で近代(明治時代以降)になると得られる情報が増え、具体性も増してくる。近代における災害種別として増加するのが大火である。おそらく近世以前も火災は頻発していたと思われるが、記録された情報は少なかった。その記録が近代初期には増加する。一方でその数は戦後(20世紀後半)になると減る。参照した資料が戦後の火災を記録できていない面もあるかもしれない。しかし建造物の構造を含めた都市の防災能力の向上が火災の減少を導いた面は大きいのではないか。他方で相模川沿いに発展した厚木の町は、近代を通して水害を多く被ってきたことも、この年表からわかる。

 この厚木災害史年表<近現代編>は、今後さらに「近代編(第二次世界大戦終了まで)」とそれ以降の「戦後編(あるいは現代編)」に分けるべきかもしれない。より詳細な情報が得られる「戦後編」は、厚木が市制を敷いた第二次世界大戦後(正確には1955年以降)の厚木の発展史を具体的に検証する上でも有効である。そして筆者が現在興味をもっているのが、戦後の厚木とかかわる近現代建築史の諸相である。続いて厚木災害史年表<近現代編>から抽出された2つの建築的トピックスを紹介したい。

 

3.厚木市の小学校校舎の歴史:木造校舎から鉄筋コンクリート造校舎へ

 一つ目は厚木市の小学校における鉄筋コンクリート造校舎の普及というテーマである。

 厚木災害史年表<近現代編>には、昭和411966)年の出来事として「台風4号・台風26号の被害大、小鮎小学校木造校舎の屋根被害」とある。東京工芸大学厚木キャンパス近くの小鮎小学校は、昭和41年時点では木造校舎であった。同年9月の台風で3棟の木造校舎の屋根が大きな被害を被り、それを契機として鉄筋コンクリート造校舎が建てられることになる。小鮎小学校の百周年記念誌(『小鮎小の教育』1989年)によると、最初、同年11月に応急校舎としてプレハブ校舎三教室が完成し、翌428月に鉄筋コンクリート造三階建校舎が竣工している。つまり台風被害を機に小鮎小学校では木造校舎から鉄筋コンクリート造校舎に転換したわけだ。実はこの時期は厚木市内の小学校で鉄筋コンクリート造校舎が普及し始めた時期でもあった。

 厚木市役所が発行している『広報あつぎ』の昭和421967)年815日号は、小鮎小学校の鉄筋コンクリート造校舎の建設を「市内五番目の鉄筋校舎 小鮎小月末に完成」と報じている。『広報あつぎ』から判明した限りでは、まず昭和391964)年に厚木第二小が建設され、以後、昭和401965)年に依知南小、昭和421967)年に厚木北小と小鮎小、昭和461971)年に厚木小、昭和471972)年に清水小、昭和481973)年に三田小、昭和491974)年に相川小、昭和511976)年に妻田小、愛甲小、清水南小(仮称)というようにほぼ毎年のように鉄筋コンクリート造の小学校校舎が建設されていた。

 厚木市の小学校には、明治時代に開校した厚木小学校、清水小学校、三田小学校、相川小学校、小鮎小学校などの長い歴史をもつ小学校のグループと、昭和の中盤、すなわち1960年代以降に創設された比較的歴史の浅い小学校のグループの2群がある。当然ながら明治時代にできた小学校は、開校以来、木造校舎を学舎としていた。一方で厚木市の人口増とともに昭和の中盤以降新設、もしくは既存校から分離新設された小学校は、昭和391964)年開校の厚木第二小を皮切りに開校当初から鉄筋コンクリート造の校舎をもつことになる。この時期厚木市の小学校の歴史において木造校舎から鉄筋コンクリート造校舎への転換が進んでいくのである。

 小鮎小学校の台風被害による校舎の建て替えは、厚木市において、歴史的な木造校舎から近代的な鉄筋コンクリート造校舎への建て替えをうながす一つの契機になったように思われる。実際その後に厚木小や清水小、三田小、相川小といった明治以来の歴史をもつ小学校において鉄筋コンクリート造の校舎が建設されていくからである。

 この時期の『広報あつぎ』を通覧してみると、例えば昭和501975)年615日の記事には、昭和50年度の主要施策として「小・中学校の鉄筋化、新設が最重点」との見出しが掲げられている。そのことからも鉄筋コンクリート造校舎の普及は当時の重要課題であったことがうかがえる。災害という視点から、小学校校舎の構造の転換という歴史的問題が見えてくるのである。(ちなみに、市の広報でも「鉄筋コンクリート造」という正式な名称ではなく「鉄筋」という言葉が使われるのは面白い。一般の人にとってはそちらの方が馴染みがあるのだろうか。)

 鉄筋コンクリート造の校舎は、安全性やより良い教育環境の確保という実用面に加えて、新しい時代の象徴としての意味も担っていたように思われる。これも『広報あつぎ』を見るとその時代の空気が伝わってくる。例えば、昭和401965)年1120日の『広報あつぎ』の表紙には、新築なった鉄筋コンクリート造校舎(おそらく厚木第二小)を背景に児童たちが運動会を楽しむ写真が掲載され、その上に厚木市長のあいさつ文が重ねられている。昭和471972)年101日の『広報あつぎ』の表紙は、鉄筋コンクリート造校舎を背に4人の児童がカメラに向かって走ってくる躍動感のある写真だ。著作権への配慮から当HPへの写真の掲載を控えざるを得ないのは残念だが、いずれも元気な子どもたちと近代的な新しい校舎を重ねることで、伸びゆく厚木市を表現しようとしているかのようである。

 ちなみに、筆者は一昨年に相模原市緑区(旧津久井町)に建つ青根小学校木造校舎の建築調査を実施し、それ以来小学校校舎に興味をもっている。上述したような厚木市の小学校校舎への興味もそれがきっかけであった。青根小学校木造校舎は神奈川県で最古の現役の木造校舎と言われていたが、昨年(2016年)4月に原因不明の出火により焼失してしまった。そこから筆者は小学校校舎と防災とのかかわりにも注意を向けるようになった。また、いつ、いかにして木造校舎が鉄筋コンクリート造の校舎に変わっていったかについても興味をもった。建築史を専門とする筆者にとって、古い木造校舎の希少性は当然重要だが、鉄筋コンクリート造校舎の普及過程もまた近代の建築的現象を考える上で興味深いテーマである。引き続きこの問題を考えていきたい。

 

4.中央通り防災建築街区

 ところで、1955年に誕生した厚木市における公共建築の建設状況を知る上で、これまで度々言及してきた『広報あつぎ』はとても役に立つ資料である。厚木市役所による広報は、厚木市成立の翌年、昭和311956)年215日に第1号が発行された。最初は『厚木市政だより』という名称で、昭和371962)年815日号(第48号)まで続いた。第49号から『広報あつぎ』となり、現在も発行されている(201761日号で第1256号)。古い号は縮刷版にまとめられており、厚木市立図書館で閲覧することができる。あくまで行政側の視点ではあるが、厚木市の発展に関する一つの定点観測資料として有効なものと言える。この『広報あつぎ』の記事をもとに、1960年代の厚木市の防災と建築にかかわるもうひとつのトピックを紹介したい。昭和3842196367)年に建設された「中央通り防災建築街区」である。厚木市民にとっては「中央通り名店街」の方が一般的だろう。

 中央通りの商店街は、相模大橋で海老名方面から厚木に入ってきたとき最初に目にする地区であり、現在の厚木の玄関口のひとつを形成する建築群である(写真1。不燃性の街区を目指して、鉄筋コンクリート造で建設された近代的な建築群であった。その計画は昭和351960)年の火災をひとつの契機として始まったとされる。その点でこの建築の成立も、厚木災害史年表<近現代編>を起点に考えることができる。

 

 

 すでに述べたように、近代の厚木では多くの火災が記録されている。厚木は火災が起こりやすい町であった。それは地形も関係している。もともと南北に通りがのび、南北方向に建築が連なるため、延焼しやすかったのがひとつの理由とされる。『厚木の商人』(鈴村茂著、1980年)には、厚木の町並が「地形的に南北に建物が続くために、一たび火災が発生すると大火になりやすい悪条件であった。相模川の上部を流れる川風が時には火災の手助けになることもある」と記されている。この火災の延焼を止める役割を期待されたのが中央通り防災建築街区である。その成立の背景については、前出の『厚木の商人』に詳しいので、同書を適宜参照しながら述べたい。

 中央通りとはこの建築街区成立後の名称であり、それ以前は「中学通り」と称されていた。厚木のもっとも古い中心街区は相模川に沿って南北に延びる通りである。フェリックス・ベアトの幕末の写真(厚木市郷土資料館に展示)(http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=6320)をはじめ、近代に撮影された数多くの写真によって、その町並の繁栄ぶりは伝えられている。この目抜き通りから枝分かれして西に伸びる道が中学通りであった。当初は幅2.5mほどの狭い道だったという。それが関東大震災後(1923年)の昭和の初めに幅員8mほどに拡幅される(ここでも災害がかかわっていた)。さらに大正151926)年に相模橋が改修・開通したことでこの道路の重要性が増していく。中学通りと呼ばれたのは、この先に現在の厚木高校の前身となる神奈川県の第三中学があったからである。ちなみにこの中学通り沿いには、神奈川県蚕業取締所や厚木警察暑など、官公庁の建物が建てられていった。現在この中央通りの先に厚木市役所があるのも、そのような場所性とかかわっていると言える。

 この中央通り沿いに、先述したように昭和351月の火災が契機となって、鉄筋コンクリート造による不燃性の商業街区を建てる計画が市の主導でなされたのである。東西に延びる鉄筋コンクリート造の建造物は、南北方向の延焼をくいとめる上で有効と考えられた。なお、この建設計画の背景には、昭和361961)年61日に公布施行された防災建築街区造成法(http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/03819610601110.htm)があった。厚木市はこの法律を活用し、国と県の財政的補助を得て、地元の商店街と協議を重ねながら計画を進めたという。『広報あつぎ』の昭和3857日号には「防災街区の摘要を受けて建築した中高層ビルでは、川崎市についで、県下では二番目のもの」と記されている。ちなみにこの防災建築街区造成法は8年後の都市再開発法の施行に伴い廃止されるが、この法律を活用して、(法律廃止後の経過措置期間も含めると)全国800以上の街区が造成されたという(中島直人「藤沢駅前南部第一防災建築街区造成の都市計画的意義に関する考察」『日本建築学会計画系論文集』20136月)。

 不燃建造物の建設と同時に道路の拡幅にも主眼が置かれていた。この防災建築街区の建設によって道路は8.5mから18mに拡幅される計画だった。防災に加えて道路渋滞緩和をめざしたひとつの再開発がここでなされた。

 中央通り防災建築街区は8つのブロックに分けて、段階的に建設されていった。既存の商店街はそれぞれのブロックの建設時期にあわせて順次仮営業所に移り、鉄筋コンクリート造の新棟の完成後に新しい店舗スペースに移転していった。昭和38年に第一期としてB, G2ブロックが完成し開店する。翌394月にAブロック、昭和40年にはC, D, E, Fブロックが完成した。最後のHブロックは昭和41年春着工し、翌年竣工した。これら新装された商店街に入居した店舗は合計で70店を数えたとされる。

 この建設についても、先述の小学校校舎と同様、当時の『広報あつぎ』では繰り返し報じられており、当時の厚木市の力の入れようが推し量れる。完成の昭和421967)年の715日号には、「十億の防災街区完成.四ヶ年の歳月ついやす」と見出しが躍る。記事によれば、この防災建築街区は道路(中央通り)の両側に沿って300mの長さをもつ。この道路は東京と沼津を結ぶ路線(東京沼津線)であり、その拡幅は昭和391964)年の東京オリンピック開催までに完成が目指されていた。その点で国家もかかわるプロジェクトだったとも言える。8つのブロックの内、3ブロックは東京オリンピックの開催に間に合ったわけだ。

 中央通り防災建築街区は、当時の厚木の新しいシンボルとなった。鮎まつりを報じる『広報あつぎ』では、決まってこの商店街を背景に進むパレードの写真が用いられている。「新装なったデラックスな中央商店街」の見出しで、狭い道に個人商店が並ぶ10年前の中学通りの風景と対比させた写真も掲載されている(『広報あつぎ』昭和4021日)。水平に窓が並ぶ鉄筋コンクリート造の近代的なデザインは、新しい時代を告げる建築として、当時の厚木市民に新鮮に映ったはずである。

 最盛期には3つのスーパーが開業していたというから、商業面でも厚木をリードする存在となった。ただし、その勢いは長くは続かなかった。『厚木の商人』は「中央通り商店街が順調に営業を進展させたのは僅かに10年」と記す。小田急線本厚木駅前が商業地区として次第に発展を見せ、買い物客の流れがそちらに移ったためである。現在、この中央通りを歩いてみるとシャッターを閉めた商店も目立つ。中央通りは本厚木駅から北東に徒歩で10分ほど離れているので、本厚木駅前の方に人が集まるのは利便性から考えて当然のことであろう。商店街の盛衰は時代の流れとも言える。ただ、1960年代に建設されたこの中央通り防災建築街区を眺めてみると、統一的にデザインされた建築は現在でもひときわ目を引く(写真2)。その歴史的な意義は改めて評価されるべきだし、使い方を工夫することでこの建築を活性化する方策は見つけられないかとつねづね思う。

 

 

5.おわりに:厚木近現代建築史の試み

 厚木災害史年表を起点に近現代厚木の2つの建築的トピックスを紹介した。いずれも紹介した建築物自体は歴史的に見ればごく普通のものであり、特筆すべきものではない。しかしそれらを時代と場所とのかかわりから見ていくと、それぞれ語るべき意味をもってくるように感じている。このように近現代の厚木における建築・都市史のさまざまな側面や事例を抽出し、考察していくのが筆者が考える厚木近現代建築史の試みである。その際に重要なのは、単に郷土史的なローカルな視点だけではなく、より一般的な近現代の問題に通じるような問題意識である。例えば小学校校舎であれば、建築における木造から鉄筋コンクリート造への移り変わりというテーマであり、中央通り商店街であれば、都市再開発やそこで用いられた不燃化建築というテーマである。そのような視点を持つことで、地域的な話題を超えた、より普遍性をもつ近現代建築史へとつながっていくのではないかと考えている。

 

 中央通り防災建築街区の建築が筆者にとってとくに興味を惹くのは、そのデザインが20世紀初頭に西欧で成立したモダニズム(近代主義)の建築の影響をつよく受けている点である。その点でこの商店街を考えることは、筆者の専門とするドイツ近代建築史にも通じていく。厚木近現代建築史への取り組みは、よりグローバルに拡大していく試みなのである。

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